幸せの定義

気づき・Letters

年末年始は、普段会わない人たち、親戚や友人らと話をする機会が沢山ありました。

いろいろと話していて感じたのは、同じ血を分けても、同じ寝食を共にしても、同じ何かを信じていてもetc、「幸せ」であることの定義は異るということ。

 

 

そもそも、「幸せ」って何なのか。

「幸せ」って、どういうことなんだろう?

と、考えたり感じたりしたことはありますか?

自分の幸せ、家族の幸せ、世の中の幸せ etc

 

 

私はね、温泉に入っている時、泳いでいる時、裸足で歩いている時、家族が仲良くしている時、好きな音楽や本に没頭している時、物を作っている時、綺麗な水や汚れていない自然があること、柔らかいタオルにくるまっている時、そしてそれらを通して安心やワクワクや平和を感じる時、etc

こうしてみると、ほとんどが日常の小さなことから幸せを感じています。

言い換えれば、これらが私にとっての幸せの定義だし、指標かな。

 

 

(美味しいラーメンも幸せの指標だったり)

 

 

では、世の中でいう「幸せ」がどういうものなのかと、あくまで客観的に観てみますと、

何か大きなことを成し遂げた時や、着飾り華やかな生活をすること、永遠の若さや美しさを保っていること、社会的ステイタスを得ること、豊富な富を持っていること、等 が「幸せ」なのだと思われている傾向があります。

確かに、そういう状態で幸せを感じるのもありだと思います。

 

 

でも一方で、「これらのような幸せを求めなくてはならない」、「これらの幸せに近づかなくてはならない」、「そうできなければ失敗であり落伍者である」といった意識も見え隠れしています。

ある意味、脅迫に近いような、洗脳に近いような状態だと感じることもあります。

「幸せ」について、ある一定の基準・価値観・条件があり、それに近づくことが、生きることの大前提になってしまっています。

 

 

資本主義経済や消費中心の社会は、まさにそうです。

また、心を磨くであろう精神世界においても、実は多々あります。

今の精神世界は結局、形を変えた資本主義制度、ヒエラルキーや競争社会の要素が強いのですよね。

 

 

○○な人は幸せになれる

△△して高い次元に行けば幸せな世の中になる

◎◎を選ぶことが成功と豊さに繋がり、だから幸せになれる

etc

etc

 

 

 

 

 

本当に?

 

 

 

 

 

もう一度、言ってみます。

 

 

 

 

 

本当に???

 

 

 

 

 

 

それって、あなた自身は、心底そう思っている?

そういう人もいるかもしれないけれど、あなたの魂は、そう感じている?

その幸せって、どこからきている?

自分にとっての「幸せ」って、一体なに?

 

 

誰かの言う「幸せ」をベースに、世の中がある一定の価値観で固まっていくことは、恐ろしさすら感じます。

それが世の中を良くするためとか、自己を高めるとか、光の国を作るとか、アセンションとか、etc

この価値観に同意した人が、幸せになれるとか。

 

 

諸外国で最近特にあからさまになっている人種分けなど、分かりやすい例として挙げられると思います。(日本でも起こっているけれどね。)

出身地、身体的特徴、言語、思想、信仰、宗教、etc

それぞれの価値観において良かれと思ってやっていることが、人間や地球を分断していく。

特定の価値観を推し進めることは、危ういなと。

 

 

身近なところでは、今週末にセンター試験がありますね。

偏差値もひとつの観念と言うか、ものの観方の一つというか考え方であって、それが世の中や人生を決める絶対的な尺度ではないんだけれど。

実際は、世の中、それ中心にまわっている部分もある。

 

 

けれども、その尺度に自分が合わないからと言って、指標に当てはまらないからと言って、本質的には失敗でもないし、不成功でもないですよね。

偏差値や学歴の高低によって、本人の性質や才能や生きるという価値が、上載せされることも無ければ、反対に損なわれることも無い。

そう思ったとしたら、そう思ってしまっているというだけ。

 

 

試験結果が希望通りに行ったら、それで感じること、出会うこと。

希望がかなわなかったら、それで感じること、出会うこと。

どちらも、のちのち自分を育ててくれますし、幸せです。

 

 

だから、気負いすぎずに、その時の自分なりの自然体で臨まれますように。

私もお祈りしております。

一番は、身体を温めて、冷やさないようにね^^

 

 

 

 

誰でも、幸せを感じたいと思っているでしょう。

もちろん、それは私もそうです。

 

 

その幸せって・・・「求めて成るもの、ではない」のですね。

なりたい、成りたい、と求めている時点で、自分にはそれが無いと思っていることになります。

自分の中心から目をそらせて、自分の持っている大切なものを見落として、

外に在る基準や価値観に合わせようとして、自己の本来の価値(個性、輝き)を放棄してしまっている。

 

 

これでは、かなり無理をしないと、幸せには届きませんよね。

何故なら・・・その幸せは自分の内から発したものではなく、誰かが決めた条件だから。

本当なら、生きるのに条件すら必要ないのにね。

 

 

誰でも自分なりの幸せがあるはず。

旬のミカンを家で食べる時も、ゴージャズなレストランでディナーの時も、それぞれに幸せだし、そう思わない人もいるだろうし。

あなたが感じる幸せも、私が感じる幸せも、どっちもあっていいんじゃないかな。

 

 

隣の芝生が青く見えても、それはお互いさまだったりして、自分が持っているものも、あなたが持っているものの、それぞれが価値あるものだから。

 

 

日々を過ごし「その結果、幸せ、と感じる」のがより自然な形であり、魂の意に沿った幸せの定義に近いのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

2018-03-16自然体

Posted by aria