「嫌い」は、悪者ではない

気づき・Letters

良い悪い、善し悪し、高い低い、可不可、最高最低、美醜、幸運不運 etc

何かの基準があって、それで対象を測ること。

「判断」「ジャッジメント」 とも呼ばれます。

 

 

その基準の延長線上に、「好き、嫌い」 もあります。

 

 

何かや誰かに好意を感じる時、好き、嫌い、この2つだけに分かれるものでものない。

大好き、好き、ちょっと好き、今だけ好き、どちらでもない、あまり好きではない、何となく嫌だ、嫌いだ、大嫌い etc

度合いのスケールは、もっと細かく分かれるのが本当のところです。

 

 

私の場合だけれど、好き嫌いは度合いも濃さも色々です。

  • レモンは割と好き
  • アボガドは結構好き
  • パンが大好き
  • コーヒーはあまり好きではない
  • 焼酎は苦手
  • トニックは嫌いだ
  • 秋が好き
  • 以前は夏が大好きだった

 

 

好きにも嫌いにも、色々な種類があります。

 

 

でも、人によっては、様々な好きと嫌いがあるとは知りつつ、「好き、嫌いの2つ」しか感じないという人もいる。

以前はそう言う人と話をしていると、微妙なセンスが通じず疲れることもあったし、子供っぽいなという印象を持っていました。

 

 

ところが先日、好き、嫌い をはっきりすることで良い場合もあると気が付きました。

そのことを具体的に書きます。

 

 

まず前段階として、今私は、自分がニュートラルに戻っていく過程にあって、そのために生活を変えたり、会う人を変えたりしています。

すると、だんだんと余計な信念などが外れていって、以前よりももっと楽でいられるようになっています。

ニュートラルへの道に近づくうちに、要らない過去のパターンや余計なものが、浮き上がるように、風が埃を掃うように取れていく。

私のそれ(過去のパターン)とは、はっきりと白黒=好き、嫌い を感じきらなかったこと。

 

 

私は、時折思い出したように、イライラがやって来ることが有りました。

ほんの小さいイライラだったんだけれど、それが浮かんでくるとやはり気持ちが良いものではない。

そういう時に人って、思考の連鎖が始まってグルグル何日も続いていくことも多いですよね。

 

 

先日もそのイライラが朝一で!浮かんできました。

その思考に一日を支配されたくないな、と思いつつ…。

でも今の私は自分のニュートラルの状態を信頼しているので、冷静に順に追ってそのイライラの元を視ていったわけです。

 

 

するとそのイライラは、特定の人物に辿りつきました。

(今はすっかり手放して、何も感じることが無いのでこうして書いています。)

その人物は、「正しくある事。間違いはダメ。~ねばならない」が強く表れているのでした。

 

 

私は、その、正しさ、間違いはダメ、~ねばならない、というラベルに反応し、怒りを感じていたんですね。

(何故怒りが湧くのか、理由もあるのだけれど、今は割愛します。)

更に、そうなりたくない、そうなったら嫌だ、とも!

そうだ、そうだ、ああなりたくない。なったら終わり後退だ~。Etc

イライライラ

 

 

そして極まった所に、「嫌いだ」 が降ってきました。

 

 

ああ、私はその人のことが嫌いだったんだ!

あの人のことが嫌い・・・頭と心と身体が一致した瞬間。

 

 

すーっと溶けていくイライラとわだかまり。

パンっと私の中で何かが消滅したように、

この納得感と、爽快感。

はっきりと白黒つけなかったことに、今白黒がついたことで、その元の感情のしこりのようなものが消えていきました。

 

 

 

 

一旦、嫌いだと自覚したら、今までのあれこれが笑えるほどどうでも良くなっていきます(笑)

自覚したら、手を離れていく

まさにこういうことか。

 

 

カウンセリングのクライアントさんなどには同じことを言ったこともあったけど、

自分自身にもあったんですよ。

 

 

ここで嫌いを認めるまで私は、どこかで相手の良い部分を探して見つけようとしていました。

実際、その人は素晴らしいところもたくさん持っています。

でも、でもですよ、

「その人がどうこう」ではなくて、「私自身がどう感じるか」

それから目をそらしていました。

 

 

嫌い、というこの正直な感情を、私は認めてこなかったんだなあ・・・

確かに、生涯の内、「これが嫌いだ」と断言できるものって、私にはほぼ無い。

うん、特に最近は、ほぼ無かった。

 

 

自分の中のどんな感情も、どんな自分もまるごと受け入れる。

その一つが、「嫌い」の感情を認めることだった。

「嫌い」だと思っている自分がいること、を認めること。

 

 

嫌い、を認めにくい風潮があるのも事実。

好い人、綺麗な言葉、穏やかさ、など、「嫌いの反対に在るものが善(良いこと)」とされている空気。

つい人は、好きは良きこと、嫌いは悪いこと、と定義しがちです。

 

 

例えば、誰かを傷つけないために、好きでもないことを好きといったり、嫌いなことを隠したり。

殆どの人が気が付いていない、

それって、誰かへの思いやりかもしれないけれど、自分のことは大切にしていない。

 

 

好き、と感じることも、嫌い、と感じることも、それに正解を求めることは無意味である。

ましてや、全てを好きという人が善人で、嫌いと言う人が悪人 なわけもない。

嫌い なら嫌いで、それでOK。

 

 

ただ、その「嫌い」の感情に囚われすぎずにいることも大事だと思う。

強すぎたり、長期にわたる感情は、念とか怨になりやすいのも事実だから。

感じたら、「あ、そう感じる自分がいるんだな」とすこし離れて見ることも必要ですよね。

 

 

どんな感情も、出来事に反応した心の状態

好きも嫌いも同じこと

相手のせいではなくて

自分の何かが反応している

それは大事な大事な、生きている自分の心の動き

 

 

好き、ポジティブの一見明るいヴェールの下に、自分の本当の感情が隠れている。

嫌い、などのいわゆるネガティブな感情を悪者にしない。

ニュートラルには、どんな感情も、どんな自分もまるごと、だね。